ギャラリー名和屋 2012・11・3(文化の日)夕の部 16:30〜


知人である陶芸作家の糸井氏から
教えていただき行ってきました


正面玄関
屋根の高さは、2階建なのに
現在の3階建ての屋根に匹敵




釜戸は、現在も使われていました

Florez Duoの兄弟

日本に住んで20年という
フローレス・Duo
日本語上手でした^0^

ギャラリー名和屋 -谷屋住宅-(王寺町)

堂々たる入り母屋造り

 木造2階建ての農家住宅だが、高さは現代の住宅では3階建てに相当するぐらい大きく堂々とした建物。入り母屋造りの堂々とした屋根が風格をあらわす。この住宅は江戸時代後期の安政元(1854)年に着工し7年がかりで建てられた。建築当時、全体を漆喰(しっくい)で白壁にすると武家屋敷に見えるので土壁にするようにと指示されたとの逸話も残っている。

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▲夕暮れを背景に建つ谷家住宅。入り母屋造りの妻面上部に
白壁が施された大きな建物から当時の豪農の暮らしがうかがえる

 本屋は建物西側中央部に坪庭を配し、その南側に床の間のある奥座敷など座敷三間が一列に並ぶ。座敷の北側には仏間や台所など六間が配される複雑な構造に。2階は通常の2階部分と、米倉などが効率よく組み合わされている。

▲サクラの一枚板と庭側に柱がないことが特徴の廊下

 特徴は、玄関から次の10畳間には農家風の太い鴨居(かもい)が、奥の座敷二間には武家屋敷風の細い鴨居が用いられている。また長さ約10メートルを超える建物南側の縁側部分の廊下にはつなぎ目のないサクラ材が張られている。また、その廊下の屋根は建物中心部から片持ちされ、表に面する部分に支える柱はないま。

▲本屋の奥座敷に面した坪庭

 後醍醐天皇を守り、室町幕府を倒し天皇中心の「建武の新政」を打ち立てた功労者の一人、伯耆(鳥取県米子市)の豪族、名和長年。この流れをくみ、吉野朝以降、京都から吉野への街道筋にあたるこのあたりで帰農した一族が谷家の祖先という。以来「名和屋」の屋号で呼ばれていた。また林業も代々営んでいる。

▲黄色い土壁が特徴の谷家住宅。
玄関は土色と茶色い木の色で見る人にぬくもりを与える

 伝統的な日本家屋を使い続けるためにも大勢の人が集まって楽しめる機会をとの思いで、築150年の節目だった昨年、はじめて座敷四間を使ってコンサートを行った。13代当主・谷甚四郎さんは「『ギャラリー名和屋』の名で今後も続け、大勢の人と感動を分かち合える空間にしていきたい」と話している。


◆谷家の埋蔵金(奈良県)
 
1967(昭和42)年10月15日、奈良県北葛城郡王寺町本町の旧家谷甚四郎さん方で土蔵を改築していたときに、床下から直径43センチ、深さ1メートルもある古丹波焼の大きな壷が出てきた。中には、享保大判が1枚、中判(天保五両判金)が1枚、そして、正徳、享保、元文、文政、天保などの小判が50枚入っていた。そのほかに、一分金や豆板銀といったものもあり、当時、総額1億円とうわさされた。